趙州和尚、因(ちな)みに僧問う、
「狗子に還って仏性有りや無しや」
趙州云く「無(む)」
無門曰く「参禅は須(すべか)らく祖師の関を透るべし、妙悟は心路を窮めて絶せんことを要す。
祖関透らず、心路絶せずんば、尽(ことごと)く是れ依草附木の精霊ならん。
且らく道え、如何が是れ祖師の関。只だ者(こ)の一箇(いっこ)の無の字、乃(すなわ)ち宗門の一関なり。
遂に之を目(なず)けて禅宗無門関と曰(い)う。
透得過(とうとくか)する者は、但だ親しく趙州に見(まみ)ゆるのみならず、便ち歴代の祖師と手を把って共に行き、眉毛(びもう)厮(あ)い結んで同一眼に見、同一耳に聞くべし。
世に慶快ならざらんや。透関を要する底(てい)有ること莫しや。
三百六十の骨節、八万四千の毫竅(ごうきょう)を将(も)って、通身に箇の疑団を起こして、箇の無の字に参じ、昼夜に提撕(ていぜい)せよ。
虚無(きょむ)の会(え)を作すこと莫れ、有無の会を作すこと莫れ。
箇の熱鉄丸を呑了するが如くに相似(あいに)て、吐けども又た吐き出さず、従前の悪知悪覚を蕩尽し、久久に純熟して自然に内外打成(ないげだじょう)一片す。
唖子(あし)の夢を得るが如く、只だ自知することを許す。
驀然(まくねん)として打発(たはつ)せば、天を驚かし地を動じて、関(かん)将軍の大刀を奪い得て手に入るるが如く、仏に逢(あ)うては仏を殺し、祖に 逢うては祖を殺し、生死岸頭(しょうじがんとう)に於て大自在を得、六道四生の中に向かって遊戯三昧(ゆげさんまい)ならん。
且(しば)らく作麼生(そもさん)か提撕せん。
平生(へいぜい)の気力を尽くして箇の無の字を挙せよ。
若し間断せずんば、好(はなはな)だ法燭(ほうしょく)の一点すれば便ち著くるに似(に) ん。」
頌(じゅ)に曰(いわ) く
狗子仏性、全提正令。
纔(わず)かに有無に渉れば、喪身失命せん。
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